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2012年6月 2日〔メディア局〕
北アルプス槍ケ岳(3180メートル)周辺などで山小屋を経営する槍ケ岳山荘グループがことし創業95周年を迎え、グループ会長の穂苅貞雄さん(90)=松本市県=が創業当時の様子などを振り返った「槍ケ岳とともに」が信濃毎日新聞社から出版された。穂苅さんはまだ北アルプスに登山者が少なかった創業当時や戦後の物資不足の中での経営の苦労などを語っている。
同グループの最初の山小屋となる槍沢小屋は、貞雄さんの父三寿雄(みすお)さんらが同じ商店街の商店主らに出資を募り、1917(大正6)年に建設した。当時は上高地から槍沢をたどるコースは主流ではなく、燕岳や常念岳を越えて来る人が多かったという。その後、三寿雄さんは槍ケ岳山頂直下の肩の小屋(現槍ケ岳山荘)などを建設し、貞雄さんは7歳のころから山小屋に通うように。「子どものころは松本の街が恋しかったが、山ではわなを仕掛けてウサギを捕るのが楽しみだった」
太平洋戦争中は登山はぜいたくとされ、槍ケ岳登山は兵士の訓練のため行われた。北アルプスを世界に紹介したウォルター・ウェストンが敵国の英国出身で地元の青年団が反感を抱いていたため、三寿雄さんらは上高地のレリーフを隠して保管したという。
貞雄さんは東京での商社勤務の後、1954(昭和29)年に山小屋経営を引き継いだ。戦後の物資の少ない時代で、山小屋では米軍の払い下げの寝袋を使っていた。昭和30年代の登山ブーム時、槍ケ岳山荘は定員100人だったので、混雑すると小屋従業員は外の岩陰で眠った。
貞雄さんは、江戸時代に槍ケ岳に登頂した修行僧播隆上人の研究者としても知られる。ただ当初は「山小屋を大きくすることだけを考え、父親に言われて嫌々播隆上人の資料撮影に行っていた」と振り返る。現在も趣味の写真は続け、松本から槍ケ岳を撮影している。
「槍ケ岳とともに」の著者の山岳ジャーナリスト菊地俊朗さん(77)=松本市=は「地元の視点からの山の歴史を知る上で、穂苅さんらは貴重な証言者」と話している。B6判、207ページ。1050円。
写真説明:播隆上人の研究書を手にしながら語る穂苅貞雄さん